※この記事は僕の完全なる偏見でお送りします。
お酒は二十歳になってから。
ノォォォオオオオオオオオミカイィィィイイイイイ
それは熱き大人たちの戦い
ノォォォオオオオオオオオミカイィィィイイイイイ
それは人生の縮図、男のロマンである。
酒とは毒である。
半日寝ていれば多くは回復するが運動機能や認知機能などが一時的に衰え、多量に摂取すると1日以上症状が続き、酷い時には死に至る。
また、中毒性がある。
なのに人は酒を飲む。
何故なのか。
儀式としての酒
一つは儀式、イニシエーションとしての酒。
酒は二十歳になってから。
つまり、成人したら酒を飲んでも良いと言うことだ。
これは周りの人間に自分は日常的に毒を摂取しても簡単には死なない成人に成長しましたよとアピールするための儀式なのだ。
逆に言うと、酒を日常的に摂取できないような出来損ないの身体では成人として社会は認めないと言う事に他ならない。
社会に認められるためには1人で生計を立てるだけでなく、日常的に毒を摂取出来るくらいにフィジカルが強くなくてはならない。社会というものはそれほどまでに辛く厳しいものなのだ。
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飲み会はバトル
あなたが飲み会が楽しいものだと思っているならその認識は今日から改めた方がいい。
飲み会とは武力を伴わないバトルだ。戦闘行為だ。
社会というものはマウンティングの取り合いだ。
マウンティングに勝った男が、金も名誉も女も総取りできる。
だがしかし、そうしたマウンティングの取り合いでいちいち暴力で争っていては死人が絶えなくなり社会を保てなくなる。
そこで昔の人は考えたのである。
毒を多量に摂取して、最後まで根をあげなかった奴が強い事にしよう。
馬鹿か??????
どっかん大肝臓バトルの幕開けである。
まぁ死人が出ないだけマシなのかもしれない。
特にこの手のバトルは血気盛んな学生時代に起こる可能性が高い。いや、もはや日常的に巻き起こっている。
飲んで飲まれて吐いて潰し潰され持ち帰る。
このバトルのために学生は多くの鍛錬を積む事になる。
分解のために必要な筋肉を鍛え、己の限界酒量を把握し、最も摂取と分解のバランスの良いペース配分を研究し、時にはプライドを捨て事前にウコンなどのドーピングすら厭わない。
その研鑽の果てに相手を叩き潰す。これも飲み会の一つの姿である。
やがて若さが消え、衰えて来ると大規模な飲み会バトルは行われなくなる。女と一対一に持ち込み他の男とやり合わずにすむ戦略を模索した方が効率がいいからだ。
だがこれは真の強者の戦略からは程遠い。真の強者の戦略とはホストのように盛り場で1番酒を流し込む事なのである。
闘いとは非情なものである。
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祭りとしての飲み会
祭りとは社交場だ。あまり親しく無いものが成果物を共有して距離を詰める事で日常生活や狩りを円滑に行うためのコミュニケーションを築く。
大人になるということは狡猾になるということだ。
自らの腹の中は見せずに、以下に立ち回るか。それが重要な局面が幾度となくある。
だが、腹を割っておいた方がいい関係性というものもある。職場の同僚、上司、後輩などである。
だが大人は普段自分の心の壁(ATフィールド)をバリバリに展開していて自分にも解き方がわからなくなっている。
そんな時に酒だ。毒だ。
毒はいいぞ。嘘の壁で塗り固めた虚栄心をボロボロに剥いで人間を死にかけの状態に持っていってくれる。
社会というのは意外と死にかけてる奴に優しい場合がある。本当に死に向かっている場合は冷たく見捨てられるが、一時的な偽りの死にかけに対しては恩を売るチャンスである。
死にかけたやつを介抱して恩を売る。そして後日お礼を受ける。これは仲良くなりたい双方にとってメリットのあることである。
気持ちが良くなっていらんことベラベラ喋って嫌われる場合もあるのでアドバイスするなら余計なことは喋らず潰れろということだ。
そのためにわざわざ毒を摂取するのは側からみれば茶番であるが。
また昔取った杵柄パターンで互いに思い出話を咲かせて仲良くなるパターンもある。これはもう大して飲めない老人同士で俺は昔はこんなに飲めたんだぞ。飲み会で得をしてきたんだと言う過去の栄花にすがる非常にみっともないしょうもない行為であるが仕方のない面もある。
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以上が人間が酒を毒にもかかわらず摂取してきた理由である。ちなみに全部僕の想像で、僕はほとんど酒を飲めないクソ雑魚なめくじなので与太話程度に思ってくれれば幸いである。